ジョージ・ソーンダース【ストーリーについて】

George_Saunders_on_Story

George Saunders: On Story
https://vimeo.com/240038052 (動画:7分2秒)
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《※以下、日本語に書き起こし》

ジョージ・ソーンダース:
良いストーリーとは私が思うに、多くの異なる面で、我々は互いに人間で、理解することのできない人生という狂気じみた境遇にいて、ナンセンスではない非常に高いレベルで知恵を出し合ってみないか?と示しているものだ。そしてありとあらゆる不思議なことが起こり得る。

ストーリーとはブラックボックスである、という考え方を私は大事にしている。読み手をそこに詰め込むとあなたが創ったものに時間を費やする。出てきた彼らに何が起こったかはある種驚くばかりのものだ。カーテンが開かれ、より深い真理を垣間見る。ストーリーテラーとしては、それは言うほど簡単ではない。

悪いストーリーとは、読み手がストーリーが何かを確信しており、自身の志向が固定化されたままのものだ。デート中にデート相手がインデックスカードを持っているのに気づくようなものなのだ。「7:05 着ている服を褒めろ」「7:10 母親のことを尋ねろ」と相手はカードを確認している。それではこちらは顔色をうかがわれていると感じてしまうだろう。

「9:15 髭をひねりあげろ」「8:20 大笑いさせろ」「11:00 愛を告白しろ」

なぜそんな事をする人がいるのか? デートが怖いからだ。ドキッとさせられる難問や予期せぬ瞬間は誰もが経験済みだ。それはストーリーを書くことも同様。なぜ題材を過剰コントロールしてしまうのか? 題材がどこに行くのかを知るのが怖いからだ。

私は自分自身がストーリーを過剰に制御しがちだと悟っている。「自分のストーリーはこうだ。」と。だがストーリーは「ごめんね。これじゃイヤ。ダメ。ムリ!」なんて言ってくる。そこで、ストーリーは何かという認識と、書く事を楽しむというささやかな真髄を持つことが、経験上より良い状態だ。そして一度ページに落とし込んで、書いては書き直しをしてみると、自らの不平不満は不思議と高い所にゆっくり追い立てられていく。そんなことがしばしば起こるのに驚かされるくらいだ。

例えば、「フランクはクソ野郎だ。」と表現したとしよう。うむ、少しばかり辛辣だ。それに立派な書き方じゃない。そして書き手としての思考は「なぜそうなる?」となる。フランクはクソ野郎だ。なぜだ?

「フランクはクソ野郎だ。なぜならバリスタを叱り飛ばしたからだ。」OK、順序立てて言い分を述べてるのは分かる。だが、なぜフランクはそんな事をしたんだ? フランクはクソ野郎だ・・・そう始めた時、「クソ野郎」が邪魔だと思い始めてそれを取り除いてみようとなる。「フランクはバリスタを叱り飛ばした。妻を思い出させたからだ。亡き妻を。」「フランクはバリスタを叱り飛ばした。亡き妻を思い出させたからだ。心から愛していた妻を。」

「フランクはクソ野郎だ。」から、真の愛を持ち合わせつつも、それを打ち消され破滅させられたフランク、と突然にまるで違う世界になった。男やもめの哀れみ深い物語を書きたい、と思ったからそうなったんじゃない。そうなったのは、センテンスにイライラさせられていたからだ。私が思うに、センテンスに注意を払うと自分のいっそうよい特質が起き上がるのだ。

そしてフランクについては、私は2度3度4度と彼に向き合う。「フランク、他に何かないか? 私が気づいてない何かが? 君をもっと愛せるようなものを教えてくれないか?」そしてセンテンスが言う。「ここにあるよ!」

ストーリーテリングとは、少なくとも私の経験上だが、日常生活の代役なのだと思う。これまで話してきたような、そうした態度で接せられるストーリー。希望があり、思いやりがあり、それでいて図々しくない。「それで、君は何者なの? 分からないよ。」ストーリーのアイディアを放置させると、それが実際の人生の中における書き手と人物の関係に似たものになる。そこに何度も立ち返って、リアルな展開を直観することを試みて、それを自分に近づけて、そこに何かあっても疑わしきは罰せずとする。そういう意味で、行動性ある愛の形として変形するのを目にするだろう。実際には、進行中の愛、かな。

私は年を重ねていくうちに、世界を見る目が少しだけ変わった。人生とはとても美しく、突きとめるには難しい。私にとってストーリーを書くプロセスとは、油断なく気を配りさせ続ける事であり、惑わせる事であり、秩序づけて統一した全体像を定義する事でもある。
これは本当にその通りで、全てのストーリーに違いがある。最後に書いたストーリーから同じ道具を持って次のストーリーへ行き着く。するとストーリーが言う。「いやいや、それはもう見届けてきたから、ありがちなトリックはもういいよ。あなたが外の世界に出て、それが何なのかを見てみて。18だった頃のように新鮮なのだから。外に出て、経験して、困惑して戻ってきて。そして試してみてよ。あなたが何歳だろうと関係ない。美に満ちたことをしてよ。」

〔了〕


短編集『パストラリア』(”Pastoralia”)では資本主義の行き着く先を、 中編小説『短くて恐ろしいフィルの時代』(”The Brief and Frightening Reign of Phil”)では〈他者〉とみなしたものを根絶やしにしたがる人間のエゴを描いたジョージ・ソーンダース。

今年2017年になって、初の長編となる『Lincoln in the Bardo』を出した。作中では166人の登場人物と、死と生まれ変わりの中間領域を描いたある一夜の物語のようだ。日本の翻訳版に期待。

{ ジョージ・ソーンダース(George Saunders)が、日本語で ソーンダーズ〔最後がスではなくズ〕と表記されているのは謎だ・・・}