記憶

《序文》

 

このWebサイトは長いこと更新しておらず、ドメイン更新が2025年10月なのでそのタイミングで解約して、それまではネット空間に放っておくつもりです。

過去に何かをして後悔したこと、すべき時に何もしなかったへの後悔、記憶の断片で頭の中が渦巻き、主治医に日記か何か書いたらいいですよと勧められたから。今この文章を打ち込んでいるのは、過去の記憶を順をおって整理をする為に、そして何かを吐き出しておきたいからなのだろう。個人的なことを独断と偏見・ウマシカ正直に、他者が読んでも身にならない内容でしょう。

 

<🕘読了 40分以上>

 

 

《回顧》

 

私にとってこの世に生を享けてから一番古い記憶が、2〜3才くらいのものだろうか。緑と黄緑の縦縞模様にカーテンに白いゾウのイラストがあちこちに描かれていて、夜遅くに外の灯りに照らされてゾウたちが蠢いている光景だ。後に両親から聞いた話によると、幼い私は他人には見えないものを見ていることがあり両親を怖がらせていたようだ。ユタに相談したところ、立地がすごく悪い場所だということで、国場から豊見城団地に引っ越したとのことだ。

父方の祖父母の家の周りは畑と数件の似たような昔ながらの屋根瓦と柱で造られた開放的な古家(汲み取り式の便所が外にあった)で、いつもそこに行く時は魔除けにサトウキビの葉でドでかい「サングヮー」を手に持たされて抱っこされていたっけ。地べたに座るのが嫌で、いつも父の膝の上に乗っていたそうだ。時々訪ねるくらいしかなく、いつも夜の暗い印象しか思い出せない。

母方の祖父母の家は賑やかで、母は3姉妹の真ん中で2人の兄弟がいる。この3姉妹がえらく仲が良く今でも近隣に住んでいて互いの家々を訪ねて合っている。叔父にあたる末っ子の弟が自分を茶化して「のーり、ガッパイ!」と可愛がっていたそう(今でも会うたびに言われる)だが、幼い頃の思い出として全く記憶に残ってない。保育園に通う前までは母は同級生の経営しているレストランで手伝っていたので、母方の祖母に育てられたという実感がある。金城ダム建設前の場所を散歩したり、車2台がギリギリ通れる狭く急な坂道を登って森なのか公園なのか分からない場所も定番の散歩コースだった。祖父母の家は借家で、お隣に貸主のステンドグラスが特徴の豪邸があり、何度か玄関に入ったことがあってエントランスホールの上にシャンデリアが付いている別世界のようなお宅だった。幼少期の頃の両親の印象はまだ記憶にない。

団地内の保育園に通てからの記憶は腕が抜けたことだけで、幼稚園時代は何も思い出せない。小学校に入学してからは、クレヨンでサンタクロースの話を画用紙に描いてガムテープで絵本にしたのが記憶にある最初の自作。図画工作が好きなのか、何かの絵を描いてコンクールで何かしらの賞をもらった。パンダスタンプを集めてジャンガ・UNO・将棋などの景品と交換して両親と遊び、熱心に花札も覚えさせられたりもした。いつの頃からか家にファミコンがあり、母の妹である叔母から『ドラゴンクエスト III』をもらい、枕元にゲームボーイが置かれている日もあったり、インドアな人間になったのはこの頃だろうか。小学校では図書館で過ごす事も多かったし。全校集会の最中に貧血で意識を失って倒れたことがあって、その時は母が父方の祖母から相当怒られたらしい。食については当時好き嫌いが激しくて、夕食を完食するのに2時間近くかかっていた。TVドラマ『水戸黄門』エンディング曲が流れているくらいだもの。

母は映画好きでよく一緒に連れられて観に行った。ジャッキー・チェンは面白かったけど、ドラえもんの劇場版は毎年観せてくれた。『エイリアン2』を劇場で観た記憶がありそれがトラウマになって、今でもシリーズの1と3は全編観たことがない。調べたら日本公開年が1986年となっているが、幼稚園児にそんな映画を見せてはいけない・・・。NHK放送の夕方にやっていた『大草原の小さな家』『アボンリーへの道』『名探偵ポワロ』なんかの海外ドラマ好きになったのは母の影響だろう。

小学校中〜高学年くらいになると、鼻柱の真ん中にあるホクロが目立つようになり、「鳥のフンが落ちたー」と茶化され始めた。両親がいじめを心配してか空手教室に嫌々通わされた。空手教室からの帰りにアイスバーを買って車内で食べてたら、窓の外にアイスバーを出して父に注意されたの覚えている。「外の方が涼しいのに何でダメなの?」というくらいの頭だった。

中学校は他の小学校からも生徒が集まるマンモス校だった。同じクラスにいつも制服の匂いがツンとして知らんぷりをされて孤立していたボサボサ頭の男子がいて、何かのキッカケでクラスの男子全員が横一列に並ばされて体育の先生にビンタされたのを強く覚えている。人生初めてのビンタだったが、痛くはなかった。中学校が家から遠くなり、行きは父に車でラジオを聴きながら送ってもらっていたが、帰りはつまらないバスだった。母から持たされたバス券をクラスの誰かに安くで売ってお小遣いにして歩いて帰ることが多かった。タクシーに男子学生たちがぎゅうぎゅう詰めになっていたのもいつもの光景だった。席次は20位台〜200位台と浮き沈みが極端で、小学時代にも学習塾に通わされたけど、進学塾の英語担当の赤縁眼鏡アロハシャツ講師がユーモア交じりに教えるので英語は好きになった。どこの高校に進学するかの三者面談の時に担任教師から3〜4つ勧められた中で、私は家から近く合格率が一番高い方が、と思いながらも母の鶴の一声で「コッチにしときなさい」と決定した。

高校時代は、学校近くにTUSUTAYAがあったので映画のDVDばかりレンタルしていた。緩急のある道を自転車で片道約30分、3年間続けていたら足腰と握力は強くなっていった。先日処分したばかりの卒業アルバムとクラスメイトたちからの一言メッセージからの方が的を得ているだろう。「リスっぽい」「本ばかり読んでるね」「普段何してるの?」「マジメそうだけど実は・・・」「ズッコケ三人組って知ってる?」「3年間同じクラスだったけど私のこと知ってる?」「『この森で、天使はバスを降りた』最高だった!」

父方の祖父母からは「公務員がいいよー」と口酸っぱく言われていたが、高校卒業後は大学に行くつもりもなく近所のスーパーでアルバイトを半年ほどしていた。当時は珍しかったモニター付きDVDプレイヤー、それが初めて¥10万を超える買い物だった。母には腕時計を、父には何を贈ったか覚えてない。引け目になっていた鼻の上のホクロを整形外科で取ってもらったが、洗顔しやすくなった程度で大きな変化は感じなかった。漫然と過ごす自分に痺れを切らしたのか、母が海外留学を斡旋してくれる所があるよと言い出した。

というわけで、あっという間に19才に海外留学をさせてもらった。ESLプログラムは全米各地の語学学校と提携していて、シアトル → シカゴ → サンタモニカを転々としカレッジに入学できる英語力(TOEFLスコア)を得るために、1年近くかかったかと思う。その間に、小論文やレポートを書くための参考文献の書き方やネット検索(当時はGoogleよりもAltaVistaが主流で、Lycosや今では存在していないいくつかの検索エンジンやポータルサイト)を並行して学んだ。シアトルはどんよりとした天候でホストファミリーがおばあちゃん1人しかおらずほとんど1階で生活し、2階の他の留学生は既に大学に通っておりあまり交流がなかった。雪積もる場所で生活をしたいと選んだシカゴでは、ステイ先と学校がオークパークという閑静な住宅街の中でホストファミリーに子供が4人いたこともあり賑やかだった。ホストファーザーが建築家だったのでフランク・ロイド・ライトについて詳しく聞かされた。音楽番組を一緒に見ていてラップが披露された時に、「何言ってるのか分かる?」と尋ねたら「私にも分からない」と返されたが、歌詞表現が私には過激すぎた故の優しい嘘だったに違いない。語学学校自体がカトリック色の強いDominican University内にあったせいか古風かつ穏やかな雰囲気で、図書館で調べ物をしてるとそこの学生たちに気さくに話をかけられた。サンタモニカはこれぞカリフォルニアというビーチ沿いの開放的な街で、そのためかそこで初めてお酒の味を覚えた。当時は21才以上でないと飲酒禁止だったので、クラブ等へ入り込むために屈強な門番に$20をこっそり手渡した。パスポートの生年月日を弄ったコピーを見せてもほとんど無理だった。留学前にSanta Monica Collegeへの入学予定をして斡旋会社に段取りしてもらっていたものの、同市内にある実際のキャンパスの規模の小ささに不安を感じ、入学するカレッジは自分の足で調べてLos Angeles City College(LACC)にした。面倒な申請などもあったが、1人でもやれば何とかなるものだ。

LACCではシネマ科を専攻にしたが、卒業への必要単位のため1年目は英語・数学・美術・体育・歴史・政治学などの一般教養科目を優先的に選択した。体育の科目は、米国の肥満率が高いせいか、高校時代に足腰だけは強く身体的に身軽なため容易だった。特に米国歴史と政治学は好きな科目だった。歴史の講師は黒人女性で、米国歴史の負の側面を熱心に説いていたし、政治学の講師はリベラルなのか私がオキナワ出身だと知ると「俺たちって第二次世界大戦以降、戦争に一度も勝利したことないんだぜ」と笑わせてくれた。一般教養科目にはクラスに何人かの日本人もいたはずだが日本人同士でつるむことは基本なかった。出欠をとる際の名前の呼び名が日本人とイントネーションが全く違うため、日本の苗字かどうかさえ判別できない事も多かった。私の場合はいつも「クーディケーン」と呼ばれていた。聞き取りやすくするため基本的にいつも最前列に座るようにしていて、とある英語の時間にいつも後ろ斜めにいる女性に「もしかして日本人じゃない?」と小声で囁かれた。日本語を知らない限り振り向かないわけで、あっさりバレた。日本人の服装は見分けやすいらしい。その人の名前を £ としておくが、その£とは普段から長電話するくらいに親しくなった。

LACCは地理的にシネマ・テレビ関連の学部には力を入れているのか、教授(博士)や教員は業界関係者ばかりだったし、建物内部に300人以上(記憶は定かではない)のキャパはあるだろう映画館並みの劇場兼講義場もあった。課題提出は手書きは一切受け付けず、脚本を書く授業もあるのでMicrosoftのWordが必要となり、人生初のパソコン(ノート型)を購入させてもらった(が、OSが悪評高いWindows Meだったため以降Mac派となった)。シネマ科は特に人気で、日本人留学生も多く年齢も私より上の人ばかりで、学校卒業が目的ではなく科の修了のみだったりが大多数だった気がする。さすがに日本人と関わらないわけにはいかないので、学部建物の出入り口横の喫煙場所でタバコを吸うようになって互いの機材の貸し借りや手伝いなどの制作課題を連携させる仲が出来た。その中にはその後キー局で午前〜お昼過ぎの情報番組のディレクターをやってたり、短編映画で文化庁(もしかしたら文科省)から賞を獲った人もいる。

脚本・演出の授業を主に担当していた現役脚本家のMr.Dには特別の思い入れがある。脚本作りの課題で人生で初めて短編映画の脚本を書いた。内容は要約すると、列車の中でミステリー作家とその大ファンである刑事の会話劇で、何気ない話が徐々に進むうちに新作小説のトリックが作家自身が25年前に実際に行なった殺人からで、ネタ切れで同じトリックを時効ギリギリに仕方なく小説に使ったのを初めから刑事に見抜かれていて、両者の葛藤を交えながら物語が終わる、というものだった。Mr.Dは評価「A」をくれて口頭でも褒めてもらえたものの「とても良い出来だけど、アメリカには殺人に時効が無いんだよ」と指摘した。こちらのリサーチ不足だった・・・。演出の授業では、オリジナル脚本NGで既存映画/ドラマの中から任意の脚本のワンシーン(5〜10分)を皆の前で演者に演技させる発表課題があり、私はTVドラマ『古畑任三郎』から笑福亭鶴瓶がゲスト回の犯人を追い詰める最後シーンを選び、実際のシーン自体が短いので設定がより分かるようにと無理くり話が繋がるように長めに改変した。演者は2人で募集をかけると数日で10人くらいの写真入りレジュメが送られてきた。その内の1人が、昔マイケル・J・フォックスと役を張り合ったことがあると言っていたが、本当だろうか分からない。発表後の1人の生徒からの感想に「『刑事コロンボ』っぽいね」と、三谷幸喜氏のためというわけではなくオマージュを更に改変したことを説明するややこしさから、頷くだけにした。現役脚本家だからなのか、こちらの改変を見抜いたのかMr.Dからの指摘は簡潔かつ的確で「FAXで送られた逮捕状はそもそも有効か?」と。またリサーチ不足と、素人改変したため説明台詞も多くシリアスさを強調し『古畑』が持つ喜劇要素が皆無でシーン終わりとしてリアリティに欠けたのだ。そのMr.Dは後に「なぜ君自身のあの短編脚本を使わなかったのか?」と耳打ちした。「だって、あなたがオリジナルはダメだって言ったから」と弁明したが、曲げていいルールも時にはあるんだと悟った。今考えると既存シーンのみにすべきなのに、改変した時点でルール曲げてるけど。

LACC在籍中は色んな事情で3つのアパートを転々としてきた。入学した当初はアパートを探すのが後回しになり、最初の数ヶ月は学校近隣でホームステイのお世話になった。その敷地内に離れというか別の家があり、私は2階建ての母屋にホストファミリーと、離れの別の家にはホストファーザーの弟が1階に住みその2階に日本人留学生の女性2人が住んでいた。片方はホームステイではなく間借りしている性格的に落ち着いた大人の女性という感じの人で「姉さん」と呼んでいた。もう片方は語学学校に通うため東京から来たばかりで歳は自分の一つ下でまだ19の、典型的なギャルという感じの子で、仮名は Ÿ として、こちらが恥ずかしくなるくらいに私をいつもおだてていた。姉さんは部屋を借りているだけなので食事を共にすることはなく、洗濯場所が別の小屋にあり、姉さんとはそこで洗濯中にたまに雑談をするくらいだった。

貞操観念というものが男にも当てはまるのか分からないが、性に対して純潔を保ちたいという変なこだわりを持っていた。モテたことがないからかもしれない。ある日の夕食後、Ÿが「今夜姉さんずっと居なくて怖いからお風呂入ったらウチに来て〜」と何気ない感じで言ってきた。一応「うん」と答えて、考えてみたものの夜這いと誤解されそうだし何か引っ掛かるものがあってそのまま自室でいつものように過ごしていた。1階から私の名前を呼ぶŸの声がしたので、一応ついて行って離れの2階にお邪魔した。リビングで夜の遅くまでソファで一緒にトークショーを見ながらおしゃべりして、『Friends』の再放送を観ながら俳優陣の胸板の厚さの話から私の胸を見て意外に胸板あるよねと言われ「ただの鳩胸なんだけど」と返したら触らせてとなった。流石にサインが目立ち始めて、Ÿは日本に彼氏いるんだからとたしなめた。「一緒にベッドで寝る?」と歯磨き後に自室のドアの開けながら、凄いストレートですね。私は歯磨き出来ずにソファーで眠りについた。翌朝、姉さんが帰ってきた音で目を覚まし、謝りながら顔を洗いにお手洗いを借りた。さりげなく姉さんはタオルを貸してくれて、ホストファミリーに出くわさないようにと祈りながら母屋の自室に戻った。女性2人はしばらくして一緒に出かけたようで、Ÿが前庭でホストマザーに「I slept with Nori!」と大声で2階にいる自分の耳にも聞こえた。それ、違う意味に受け取られるって。その後すれ違ったホストファーザーのニタニタ顔よ。

キャンパス生活にも慣れてきたので$500で借りれるアパートを探し始めた。空室のあるアパートは看板が地面に刺さっているので、金額だけさえ合えばどこでも良かった。イスラム系の白髪のおじさんが家主で、12畳くらいのリビングにキッチンとお風呂場とその横にウォークインクローゼットと物置きになりそうなスペースが別に付いていてベッドや冷蔵庫など大きな家財道具一式がほとんど揃っていたのと、一人暮らしがそもそも初めてで基準が分からないのでそこに決めた。シネマ科の授業を徐々に増やしていくとそれに合わせて人間関係も広がっていった。30手前の沖縄の人がいて、住む場所が無くなったからと、ウチに居候することになった。タランティーノと北野武をこよなく愛し、私が普段観ている大作もの・有名映画のタイトルを聞いては見下すような物言いをしていた。合鍵を作ってないので下でピンポンすると電話が鳴るので、電話かと思い「Hello?」と1日1回はそうなるし、当時ネットはダイアルアップが基本だったのでネットはお預けになった。Ÿとはたまに会ったりメールで互いの状況をある程度共有していて、アパートが見たいと訪ねてきた。キャミソールだけじゃ危なくないの?相変わらずだなぁ、とその頃にはお互いというか私もズケズケと何でも言えるようになっていた。ちょうど元居候さん(途中から家賃の半分を払ってくれたのでほぼルームメイト)が帰ってきて、ベッド横でタバコを吸っている私とŸの姿を見て何か誤解したようですぐ外出し帰ってきたの夜遅かった。Ÿが帰国する2〜3週間前に別のホームステイ先に居づらく(男女トラブル)なって、語学学校の同じクラスのおじさんの家に逃げたら無理やり襲われそうになったと言って、今度はウチに帰国まで居ることになり奇妙な3人生活になった。もはやプライバシーなんて無い。2人を横目に、英語の授業で親しくなった£と長電話して憐れんだのか、£とそのルームメイトの3人で小洒落たバーに行き、散々愚痴ったものだから女コンビが茶化して「その2人いま頃やってんじゃね?」私の方はその後の記憶が無い程に酔い潰れた。数日経後に元居候さんがŸが帰国するまでホステルで寝泊まりすると言い出し、今度はŸとの生活になった。2人で出かける時は手を繋いで、寝る時は同じベッドで、妹みたいな感じだった。妹いないけど。2人きりでも、たまに落ち着かなくなって1人でスーパーに行って1ガロンの水(水道水は飲んだことがない)を2つ買ってくるからと、途中でラジオ相談のように公衆電話から£に話をした記憶があるが中身まで覚えてない。期待に応えられてない気がして、頭が混乱していたのだと思う。こちらが少しだけ距離を取ってるのを察したのか、最後の数日間はŸも1人で出かけたり一緒に部屋にいても前ほど会話も減りぎこちない空気になっていった。帰国の日の朝は手紙を渡され、Ÿの男友達の車に乗って見送るだけだった。すぐに英語の授業の小論テストがあって、なぜだか涙が止まらなくてほとんど何もまともに書けなかった。Ÿとは、その後も20年近くたまに下品な話から下世話な話で長電話したり何度か沖縄に遊びに来たのと、今これを書いている数年前に会って起こった出来事に後悔することになる。

元居候さんが帰ってきて、また以前の生活が戻った。£のルームメイトが別の州に引っ越すことになりルームメイトを探していて(女性1人の学校近くの生活は安全面で不安だろう)、丁度私の方もその時の生活に嫌気がさしていたので$500が上限だと提示して、$1,000のリビングにキッチンカウンター付きで2部屋に個別のお手洗い兼浴室付きの物件を見つけたというので、そこに引っ越し£と暮らすようになった。自室があり自分だけのプライベート空間があるのはやはり良いことだ。AOLチャットに熱中し、好きな小説『Wonder Boys』の中にある言葉「Midnight Desease(真夜中病)」をハンドル名にして、『ユー・ガット・メール』よろしく香港の女の子と写真を交換して個人間チャットをしたり。その頃にはこちらはシネマ科がメインになってきて£とは履修科目も被らなくなり互いにキャンパスで会うことは無かったが、夜間の授業がない時はリビングで一緒にラブコメ映画/TVドラマを観ることが多くなった。『ベスト・フレンズ・ウェディング』は音楽は良かった。『Ally McBeal』って主人公の幼馴染みが退場した時点でもう完結した方が良かったのでは・・・。引っ越して早々に「この床の毛は何!?」と、「すね毛」と下半身が毛深いもので毎日掃除機をかけるようになった。今でもそれは続いていて、数年前からは常にレギンスを履くことになる。前のアパートから貰ってきたソファーを持ち込んだら、リビングに合わないから自室行きと釘を刺され元居候さんに二度手間をさせ歩いて持ち返し、£はソファーで自分は地べたに座り、尻に敷かれる立場が出来上がった。さばさばした性格だったのと、年齢が自分より6〜7歳くらい上なのもあって人生経験も豊富で責任感も持ち合わせていて気が楽だった。

「男女の友情は成立するか?」この問いの答えは、その友情が続くまで成立し続ける、と今だと答えるだろう。性別にこだわる必要がどこにあるのだろう。男同士ですら友情は長続きしない場合も多い。人種・宗教・性別・年齢、立場の違い、何も関係ない。「男女間に肉体的関係がないままその相手と共に人生を終えられるだろうか?」この問いだとしても、答えは同じで続く限りそうなり得る。「友情は成立するのか?」この答えも、成立し続けている間はそうで、それ以降は分からない。情は尺度で測れない。

£に初めて話をかけられ、仲が良くなり、自分自身は£に対して性的な感情を抱いたことはなかった。2人で時間を過ごすとその人の嫌な部分や好感を持つ部分も出てくる。£の嫌な部分が無く、大人の色気というものをいつの間に感じ取っていった。いつものようにテレビで何かを観ていた時、その流れで「アンタさぁ、男女の友情って成立するの思う?」彼女が言った。その質問への答えは慎重にならないといけないと直感した。「分からない」と言えば、今の関係が不安定なものになるのを暗に知らせることになる。「思わない」と答えれば、今この関係は既に破綻しているのと同じだ。「思う」と肯定すれば良いだけの話なのに、青二才だったから深く考えすぎた。あの質問が、ただ一般的な男女の関係のことなのか、それとも自分たちの今のこの関係も問いに含まれているのか・・・。地べたに座ってたせいで隣の生足が目に入って、バカ正直に身体が反応して(ジーンズ履いておけば良かったのに)、バカ正直にどころか理性を喪失した。

私は身勝手な人間です。線を一つ越えてからは妙な開放感からか£を気遣うことをしなくなっていき、心の距離は離れていく。「愛とは何か」と聞かれたら、今なら気に掛けることと答えるが、あの時そんな事は何も変えていなかった。徐々にアパートで顔を合わせること自体減ってきた。普段からいつも互いの靴は一足だけ玄関に置いていたので、部屋に居るか居ないかはそれで分かった。編集室や図書館に篭ったりして、日々アパートから少しずつものが減っていくのは気づいていた。£の私物が無くなったアパートで彼女に最後に会った時、「この先2ヶ月分の家賃はもう払ってあるから」と、何かのあった時のためメールアドレスを手渡された。大家に確認したら実際そうなっていて、詳しく聞けばひと月の家賃が$1,200だった。£からは折半と聞いていたはずなのに、毎月$200多めに出してくれていた。帰国して数年後に一度だけメールで互いの近況をやりとりをしたが、元気そうで良かったが謝罪できなかったことが悔やまれる。今でも毎日ふと£を思い浮かべる。

留学してから帰国するまでの最後の住まいとなるアパートも足で探し、家主はヒスパニック系のゲイの陽気なカップルで、私の部屋は建物の半地下に、目の高さに小さな小窓とキッチンカウンターがあるワンルームで以降は完全に一人暮らしになった。2001年夏に入ってそこに住むまでの間、ホームステイ(2ヶ月)・最初のアパート(2ヶ月)・次のシェアアパート(3〜4ヶ月)と、こうやって振り返るとあっという間に時間が過ぎたのが今でも信じられない。こじんまりとしたこの部屋は気に入っていたものの、ロサンゼルスはほとんど雨は降らないが、たまに大雨になると半地下なので雨水が流れ込み床がビショビショになったり、隣のアパートの家主の飼っている犬のノミが入ってきた時には大騒ぎになった。硬過ぎて叩いても無駄で、噛まれたら1週間以上は痒みと腫れが残った。帰国前にこの部屋を引き払う際に、女学生とその母親が内見に家主と来て部屋の住み心地を聞かれたが、家主の手前悪い部分は何も言わずにお勧めした。実際2年くらい住んでいたし、気に入っていたわけだから真っ赤な嘘でもないだろう。

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が起こった。その日いつものように講義に出席すると、生徒数も普段の半分ほどで講師も来なかった。当時はノートPCを外でネットに繋ぐのは出来なかったので、携帯電話を持ってる生徒が「何か大変なこと起きてるらしい」と、すぐ後には学校職員が来てキャンパスと地下鉄も封鎖するからすぐに帰るように指示された。映画『メッセージ』で宇宙船が地球にやってきた報道直後のキャンパスでのシーンと非常に似ている。状況が分からずにアパートに戻りテレビをつけると、ビルから人が飛び降りる様子までもがニュースで流れていた。米国内の混乱状態は数日間だけでその後は立ち直りが早い国民性なのか、日常生活はいつもと変わらかったように思う。その後にアフガニスタン侵攻でテレビのニュースはそればかりになり、大手ネットワーク局ではなくPBS(公共放送サービス)を観るようになり、『American Experience』『FRONTLINE』やケン・バーンズ作品などのドキュメンタリー番組に触れ始め、そのジャンルに傾倒していった。入学前の考えも変わり映画を作りたいという気持ちが薄くなり、映画鑑賞の方が好きなのだと気づいた。Mr.Dが講師として辞める最後の学期末に、生徒たちを郊外にあるプール付きの広々とした自宅に招き、私と友人たちは日本のビールのスーパードライをそのパーティーに持って行った。Mr.Dから「日本人でない人達ともっと交わった方がいいよ」とアドバイスを頂き、卒業後の進路を聞かれ「日本に帰ってドキュメンタリーの自主制作しようかな」と答えた。彼の反応がどういうものだったか覚えていない。

現金を多く持ち歩くのは危険なので高額なものには小切手帳とクレジットカードを併用した。銀行口座を開くのにSocial Security Number(社会保障番号)が必要だったので申請が面倒だった。カッレジに留学生専門施設があり、担当者が何でも教えてくれたので、他の人を煩わせることなくできる限り1人で何でもした。周りには車を持ってる学生も多くいたが、テレビを買った時も地下鉄を使って1人で運び持ち帰った。地下鉄など入手先の怪しいマリンフファンナを吸っている留学生も少なくなかったが、両親からの仕送りしてもらってる立場上強制帰国になるのも嫌だし、一口も吸ったことはないけどがあの独特な甘い匂いは好きだったりする。入学する時期もバラバラなので交友関係は変化し続け、女性の友人の方が割合的に多かった。女性1人で行動するのは安心できないだろうし、私自身がガツガツしてないからかな、知らぬけど。やっぱり皆んな年上で心を寄せることも所々あったが、過ちをもう繰り返したくないので距離を常に保ってそれ以上踏み込むこともなかった。逆に男になると上下関係が面倒だし、特に体育会系のあのノリが今でも苦手だ。自然と自分の周りには穏やかな人ばかりになった。

米国では語学学校時代にシカゴにいた時は、雪の積もった帰り道をフードを被って歩いてたところ、車を運転していたおばちゃんに「こんな中を歩いてちゃダメだよ。送るから乗って」と、ホームステイ先の住所を教えるのも変な犯罪になっても迷惑かけるので(見知らぬ人の車に乗る事自体危険かもしれないが)近くの駅まで乗せてもらった。ダウンタウンで雪を被ってスタバに寄ったら、可哀想に思われたのか店員のお姉さんにグランデサイズのコーヒーを差し出された。とても他のものを注文できないのでチップだけ瓶に入れてお礼をした。シカゴで危険な目にあったのはユニオン駅の出入り口付近で巨漢の黒人男に理由なく突然抱きつかれたくらいか、どうやって逃げたのか記憶不明。ロサンゼルスは気候に似て一見陽気そうに見えるが、道を尋ねたら毎回数ドルくれとねだられた。白人タンクトップ金髪男が「Hey, man.」と声をかけてきたので「Hi.」と応えたら、通りざまに「faggot」と小声で言われたこともあった。L.A.は関係のない見知らぬ人にはドライな印象がある。カッレジの目の前に中国人夫婦が営んでいる中華屋さんがあって週に2回くらいは通って、常連になったものだからいつもプレートに普通よりも大盛りに入れられ学校の近況を聞かれた。どういう仕組みか分からないが店内にピザを焼いている職人もいて一切れ$1で日本の3切れ分くらいあったが、目の前を素通りしてピザを頼むのが申し訳なくていつも中華プレートを頼んだ。安くて美味しいのに店内が混んでいるのを見たことがなくて、友人たちも目と鼻の先のその店に行ったことがなく連れて行ったら喜んでくれてよかった。アパート近くにあるフィリピン料理屋も、沖縄のように豚肉料理が多くよく通った。

2003年夏頃にカレッジ卒業までの必要単位は全て取得して、アパートにあった帰国後使わない物は友人や家主に引き取ってもらい、必要な物は船便で沖縄の実家に送った。その中にプッシュ式電話機があったのだが、きっとたくさんの思い出が詰まっていたからだろう。実家は昔ながらの回転ダイヤル式電話を使っていたので交換したが、後にそれは故障し処分され、いまだに回転式の方を使っている。うちの両親はお金には堅実で節約家だった。私が高校に入る頃には団地から引っ越した35年ローンの新築住宅も10年近く前倒しで繰り上げ返済したし、子供の教育費にはケチをつけなかった。クレジットカードの明細は両親に届くので、「この1番数の多いもの何?」「す、スターバックス・・・」小さな金額は現金だったが、店内がお洒落な雰囲気だからかカードの方を使ってたのだ。帰国直前の最後の晩餐はその頃仲の良かった沖縄出身の女性の友人にステーキ専門店に連れて行ってもらったが、ステーキを外で食べる時は焼き具合を聞くようなお店ではなかったのでウエイトレスに焼き具合を聞かれ「ウェルダン」って和製英語っぽい気がして・・・どうしようメニューにも載ってないしと焦りながら、彼女の方が先にオーダーしたのでこちらも「彼女と同じものを」と難を逃れた。帰り道に(中略)朝直接空港に行けるし。」ああ、また男の疼きが。一夜限りなら割り切れるのではと邪念を抱きながらも冷静に考えたら、夜遅いし明日部屋の鍵を大家さんに渡さないといけない。自分のアパートには駐車場が無く、周辺一帯が路駐だった。近くに駐車できるスペースがあったのならこちらから誘おう、と成り行きに任せることにした。案の定、夜も遅かったので駐車できるスペースは見当たらなかった。翌朝お迎えに来てもらって空港に向かい、出発ロビー前で降ろしてもらったが車内でも最後の挨拶もお互い何だかぎこちなかった。

22歳、2003年秋頃に帰国した。シネマ科修了書と准学士号の証書は後日国際郵便で送られてきた。卒業後は沖縄県内でイベント撮影、ビデオ制作、ダビング等を事業内容にしている会社に入社した。土日はブライダル記録ビデオのスイッチャーという複数のカメラからの映像を現場で切り替える業務が主で、平日は一般客からの持ち込みのVHSビデオからDVDへのダビング作業を中心に雑務だったりを行なった。一度だけ披露宴の収録時に複数カメラの動機信号の設定を誤り記録ビデオが台無しになり、後日新郎新婦が来て社長が対応して私は別室で話を聞いていたがどういった手段で和解したのかは知らないままだ・・・。そのうちビデオパッケージデザインのためにPhotoshopや、ビデオ編集にFinal Cut Proを学ばせてもらった。その後、小学校向けに沖縄の伝統芸能を紹介するビデオを、通常業務の傍ら数ヶ月かけてリサーチ・台本作り・編集・パッケージデザインと、カレッジでの学習が役にたった。1年と少しその会社にお世話になって、もっと視野を広げたいと思ったのか理由は覚えてないが、当てもないまま上京を決めた。

東京で映像系の仕事を探すのは時間がかかりバイトを2つ(セブン-イレブンとデニーズが同じグループ系列だったので本社からの回し者と思われた)掛け持ちして、ドキュメンタリー制作会社に試用期間3ヶ月で在籍することができた。その会社代表はもうお亡くなりになってしまったのだが吉永春子氏だった。その下にディレクターは3名、オフライン編集者1名、AD2名(自分含め)、事務方1名という小さな規模の制作会社かもしれないが、この会社制作のドキュメンタリー番組はTBSの深夜に毎週されていたし、他局でも特番として長期間かけて取材されたドキュメンタリー番組もあった。吉永氏は硬派なジャーナリストで、ほぼ毎日のネタ出し会議では皆んな却下の連続だった。撮影に必要な社内の機材はほぼ扱えたので、外観撮りやインタビュー撮りはすぐに任された。「ネットで探すな!」は絶対で、私は必須ではないが、何か色々探し回って名刺を渡すと相手がテレビで紹介されたい目的で社内に電話が来るのでそれはやめた。リサーチのために国会図書館に初めて行った時はその規模に圧倒された。任された仕事の中でとにかく時間のかかる作業がインタビューの文字起こしだった。相手の表情・仕草・口調を見ながら文字にすると逆の意味に何となく捉えられる気がしたりと、観察者目線ができて嫌いな作業ではなかった。時間に追われた慌ただしい毎日で、テープ納品・視聴率表取り・楽曲探しのために毎週のようにTBSへ通っている時が唯一落ち着いた時間だった。一度寝坊して遅刻した時にディレクターの1人に怒鳴られ、仕方がない時は何度か社内でダンボールを敷いて寝たこともあった。代表である吉永氏は個室ではあったが壁と天井に隙間があり、誰かを呼ぶ時はまるで叫ぶような声で名前を言うことが多いのだが、私は試用期間だったためか、小さな声で優しく名前を呼ぶので社内に他の人がいる時は逆に居心地が悪かった。そんな私でも一度だけ怒られたことがある。特番の制作中にナレーション原稿と編集を同時並行していて、その時の専用編集室が豪華でディレクターの1人が悠々自適にソファーに座っていた。ふんぞり返るとはこの事かぁと思いながら、原稿を書いている吉永氏から電話が入った。「そっち今どんな状態?」「はい、原稿待ちです。」────「『待ち』とはなんだァァアア!!!」電話口で雷を落とされたのは人生初だった。それが理由では全くないが、試用期間の3ヶ月で辞めることにした。自分には図太さと獅子の心を持ち合わせていないから。ディレクターになれる素質もなる気も無く、満員電車も性に合わない、しばらくどこかへ稼ぎに行こうと登録した人材派遣会社に勧めらるまま長野に行くことにした。

長野では半導体製造の会社が派遣先で夜勤オペレーターとして働いた。そこを選んだのは小柄な身体では重労働は厳しいだろうから。工場には私と同じように各地方から派遣社員として従事していて、(東京でも気をつけてはいたが)特に長野勤務以降は話す際の自分の言葉遣いを改めた。年齢や立場に関係なく敬語と名前に「さん」付けを心がけた。派遣先の会社の社員からしても、こちらは同じ作業をしていても社外の人間なので自然とそうなる。休日一緒に遊んだりの間柄で、他があだ名や「くん」「ちゃん」付けをしてもそれには倣わなかった。人は見かけによらないもので、昔ヤンキーっだっただろうなと思う厳ついお兄さんたちが実は優しかったり義理堅く、とてもよくしてもらった人たちが周りに出来た。しかし、半年も経たないうちになぜか徐々に気が沈んできた。医者に行くと、冬季うつですかねと。極寒のシカゴにいたのに??お薬を処方してもらい飲み続けていると顔中に吹き出物ができて、余計に気が落ち込んで周りのお兄さん達も気遣ってくれるしで(お金を払ってまで女性と会話して、奢ってもらってる立場だがおだてられて鳥肌が立つキャバクラ不思議な場所だ)、派遣会社の担当者に申し出て市内の別の工程を行っている工場に派遣先を変えてもらった。交友関係を持つことなく休日は高校生時代のようにTSUTAYAに通い久々に映画・海外ドラマに没頭した。そのせいか映像制作を沖縄で個人で出来ないかと真剣に考え始める。読む本も自己啓発書がほとんどになり何十冊か読んでいくうちに内容が似通っているのと、講演活動や著者自身のビジネスに繋げる為の足がかりが目的ではと疑うようになり、それ以降自己啓発系の本には手を付けなくなった。小泉政権下の派遣法で同じ派遣先3年が上限だったと思うが、その前に鞍替えしようと次は富山に行くことになる。

2008年27歳になり富山でも同じく夜勤勤務で目薬を製造する工場では、充填された目薬容器がクリーンルームから細いレーンを伝ってやってきて包装する作業が現場だった。長野での工場と同じように各地方からの派遣社員の割合も大きく、沖縄出身の ※ って女性派遣社員がクリーンルームにおるよ、とは聞いていた。包装エリアでは髪が隠れるまでのユニフォームで顔は見て人を判断できたが、クリーンルームでは全身防塵服でダイビングマスクなようなものをして誰が誰だか全く認識できなかった。包装エリア内のクリーンルーム横で作業をしていると製造ラインが止まり何も流れてこなくなった。クリーンルームに繋がる電話が鳴るとガラス越しに小柄な人がこちらを見て壁の電話を指差した。ハスキーボイスで充填作業が止まった理由を説明されながら、長いまつ毛に、つぶらな瞳とはこういうことですか、その中に吸い込まれていった。担当エリアが違うので休憩時間に顔を見ることもなく、数ヶ月後にクリーンルームに配置替えになり、同じクリーンルーム内でも自分の方はA号機担当で、※さんはB号機だったのでえらく動きがかろやかだなぁと眺めるくらいだった。半年ほど経ち、今度は同じB号機の方に配置替えになって、派遣会社を辞めるまでそこで勤務を続けた。日勤組は3人でそこを、夜勤組はリーダーと※さんの2人で作業を切り回していたにも関わらずその2人が楽しそうにおしゃべりをしているのを見たことがなかった。直感的なリーダーと丁寧な仕事をする※さんの考え方の相違らしく、その間に入ったクッションのような形でオペレーションを覚えていった。仕事にも慣れて来た頃に、※さんからもうじき仕事を辞めて実家に帰ることを知らされた・・・。1ヶ月間ほど研修として日勤組に入ってくれないかと会社にお願いされ、夜勤と日勤では給与が全く違うのでと渋っていると、夜勤時と同等の手当があるからと言われ他に断る理由も伝えられず泣く泣く日勤を経験することになった。その期間の休日に1度だけ※さんと仲の良い夜勤メンバーでカニを食べに行ったことがあり、私は市外に住んでいたので駐車場ならココの建物がいいよと勧められた場所に停め車駐泊で朝に出社しようと思っていた。帰る頃にはシャッターが降ろされており※さんの家に流されるまま一晩泊めさせてもらうことになり、そうなると意識せざるおえない訳でなんとか色情を抑えて夜を明かした。※さんがキッチンでお味噌汁を作っている後ろ姿を眺めていると、自分も30に近くなるし結婚というのも頭をよぎって、彼女を沖縄に帰るのを引き留められるのであればこれが最後の機会だろうが逃してしまった。夜勤に戻り※さんが辞めて故郷に帰ってからは、映像映作で起業するにはどうするかばかり考えるようにした。当時はYouTubeよりVimeo(後にほぼ企業向けになる)のほうが個人や小集団の海外クリエーター達の動画共有コミュニティとして機能していたので、作風・機材などの海外のトレンドを吸収していった。職場での休憩中は大広間の片隅で、自己啓発本は卒業したのでマルコム・グラッドウェルの著書や『ヤバい経済学』など原理や原則が分かる系の本ばかり読んでいた。2009年にパナソニックから動画も撮れるデジタル一眼カメラDMC-GH1が発売されVimeoで話題になり、即購入し色々富山県内を撮影し動画にしてネットに載せていった。他の班のお手伝いで残業して、月の手取り¥30万は軽く超えることが多かった。3年目に入る頃には休憩中はiBookでDreamWeaverを触ってみたり、いつか辞める感は出ていたはず。同じ頃に派遣先の夜勤の工場責任者から、会社のお偉いさんに会ってみないかと誘われた。※さんにも辞める前にその話をされていて、そこで社員として入社しないかという事だったそうだった。派遣社員からそこで正社員になったリーダーからは年収500万は超えると教えられて美味しい話ではないなと思ったが、同じ場所に居続けることが今までもないのと起業資金も貯まっていたのでそろそろ辞めますと会社に伝え我が道を行くことにした。過去に辞めていった人たちの手書きノートも参考にしながら、Photoshopで機械のオペレーションを図式化して分かりやすくまとめたので引き継ぎは上手くやった方だと思う。最後に一番高い回転寿司に行ったものの、寿司の旨みは学べなかった。

2010年秋頃に長野時代から使っていたワゴンRに家財道具を満載し富山から鹿児島まで、そこからフェリーで沖縄に帰った。帰る前に分かっていた事だが、大した実績も無いのもそうだし何よりも大人になってから沖縄のことをほとんど知らずに生きてきた。沖縄本島各地を縦横無尽に車で走らせては趣味感覚で沖縄各地の観光スポットなどを動画にしてYouTube/Vimeo等の動画共有サイトにアップしたり、てぃーだブログで映像についてうんちくを傾けてブログを書き、動画数も増える頃にはWordpressを使ったWebサイトを独学で作り始めた。その間にカレッジ卒業後に入社した映像制作会社に数ヶ月ほどお世話になるのだが、会社と自分との価値観・考え方の不一致が徐々に募っていった。海外のトレンドを早く取り入れないとと焦っていが、私物のカメラとMacが無いと何も出来ない、土日はブライダル撮影で平日はダビングや雑務で会社から出ることもできない。営業担当の人がいたので法人向けプロモーションビデオの割合を増やすためにサンプル動画などを作って売り込んでもらったが、会社との溝は深まるばかりだった。自分の考えを会社に上手く提示できなかった私が全て悪かった。Appleの『Motion』(After Effectsの簡易版)というソフトでエフェクトをかけたテロップ作成も簡単に作れるので、そのソフトを入れたMac miniを会社の後輩に譲る形で、辞める時は私物として持って帰って自分の物にしてと伝え、会社を辞めた。その行為がものすごく失礼なのは理解しているし、顔向けもできない。のちに社長からMac miniの件でお電話を頂いて、事の顛末を説明したがこちらは謝ることしかできなかった。

この箇所はApple Intelligenceによる要約。

•仕事:30歳で映像関連会社に入社。

•恋愛:R子と交際中。別れ話があったが、命乞いをして交際継続。

•退職:社内の仕事が良い時期に退社。

2012年に沖縄で個人で映像制作者として活動するには丁度良いタイミングだった(今思うと逆に遅すぎたのではないか)と思う。今でこそ「シネマティック」という言葉が一般的に謳われているが、その頃はテレビ関係者が多いためかデジタル一眼に重点を置いて業務で使用している中小企業・個人が私の知る限り沖縄にはあまり居なかったような気がする。海外では映画風な映像をデジタル一眼で撮って生業にする作り手が日本よりも圧倒的に多く、作風などのほとんどの映像関連の情報はネットで英語圏から得ていたので、その点では沖縄で割と先取りできた方なのかもしれない。2012年開業から2015年廃業までの約3年の間に機材面で思い出せることを挙げていくと、カメラとレンズに¥150万以上、数本の三脚に¥15万以上、マイク・ワイヤレス送受信機・レコーダー・コード類に30万ほど、Mac Pro(その後メモリやビデオカードを増設)と2種類の動画編集ソフトと画像編集ソフト等やその他の使用頻度の少ないソフトも入れて60万ほど、それら機材の他もろもろの周辺機器や一般用具などの合計は覚えていない。上記の総額は¥300万は超えていたかと思う。

2012年10月、沖縄県北部にある村の観光協会で、いつもお願いしていた映像制作者ともう一人の方とのスケジュールが合わないためで、私自身てぃーだブログで「沖縄ビデオグラファー」と名乗っていたので、そこからのお仕事依頼についてのお問い合わせが始まりだった。まだ開業届を出す前で屋号(のちに「indieVISUAL」)も決まっていないのと、料金設定などもなく、行き当たりばったりの状態で相手の言い値でお仕事を引き受けた。その観光協会の事務局長さんは映画・テレビ等の映像関係の経歴を持ちで色々と教授頂いたり、その後もお仕事を頂いたりとお世話になっていくことになる。同じ月にもう1件、前会社に在籍中に取材させてもらった沖縄県北部にある個人的に立地と部屋の過ごしやすさでは県内1番ではないかと思う宿泊施設のオーナーの方だった。出だしとしては良い方ではと個人的には思っていたが、いわゆる職人タイプなのか経営には不向きだなと頭の片隅にあり日々続け悩み続ける。工数の中に実質的作業時間は1時間いくらに設定すべきか、お金に関しては無頓着で映像を作ることが先で、売ることはいつも後回しの状態が続いていった。クライアントの言い値で請求することが大半で、偏見だと言われても仕方がないが、人柄や能力などを見て相性が合うかどうかで直感的に判断するしかなかった。

映像制作を個人で開業〜廃業の間は外回りなどの営業は一切行わなず、知人にも個人業始めましたくらいの軽い程度だった。お客さんは一般個人ではなく法人/団体/個人事業者のみに目を向けていた。営業活動をせずとも依頼が来るようにと、Webサイト・YouTube.Vimeo等にサンプルとして動画を載せたり、Googleで「沖縄 映像制作」を検索して1ページ目には食い込むようにあれこれ試した。当時はFacebookが全盛期だったのもあり気軽に私にお話が聞きたいという人もいて、その際は断る事なく個人対個人という形で実際に会ってお話するという感じで、こういう時は実際の仕事に繋がるような事はほとんどなかった。これから自分でも始めてみたいとアドバイスを求める人もいて、制作に関する事についてはできる限りは知識の共有はしたが、経営というのはど素人なのでそこはどうにもこうにも上手く話せなかった。

自分のやりたい事がしたくてフリーランスになったわけで、これは自分向きではないなと感じたら他の制作会社より高値で見積り、スケジュールが合わないと申し訳し他の制作者を紹介したりと、様々な理由でお断りすることも多々あった。とあるビデオ制作会社の方から連絡があり一度お会いしたいという事で話を伺いに行ったところ、ブライダルビデオの撮影〜編集の期間契約的なお仕事のお話だった。ブライダルビデオを制作する会社での在籍経験上、式場 → 制作会社 → 自分 という形で大体の相場もある程度分かって定期的に安定したお金は入ってくる事は理解しつつも、週末に撮影して平日に編集作業になりと昔の会社にいた時とあまり変わらないでお断りした。仕事を自分で選べる立場になれるのは素晴らしい。ブライダルといえば、写真スタジオ会社の方からフォトウエディングの舞台裏を映像化して商品に取り込みたいという話があり、誰でも撮影・編集できるようにテンプレート化したサンプル動画を作った。商品化したら後払いでいくらばか頂けたが、商品化されなかったのだろう。その方から結婚披露宴の招待状があり、私は彼と数回しか会ってないしご祝儀は沖縄の相場¥1万でいいだろうと準備してると、R子(県外出身の母親が外出時には着物を着る)が絶対¥3万にしてとしつこく言うので仕方なしに包んだ。披露宴に行ってみるとお互い面識のない卓で気まずくなって、式場も流れもよく知っている場所だったので時間の半分は外にいた。今でも正直ブライダルに関しては個人的に良い印象がない。(むかし親戚が披露宴を開いた時に直前にトラブルでもあったのか、新婦側友人卓がポツンとガラ空きで私や他の家族がその席に座ったくらいだ。新婦側兄弟が友人代表挨拶をしたりと苦い思い出だ。)

約3年間の活動の中で最も大きく長期に渡る仕事の話が開業届をだして半年と経たずに飛び込む。大手企業の担当者からのメールで「御社のサイトを見て」という文言の入った問い合わせで、自分のことを法人化した制作会社だと勘違いさせてしまったのだろうと思いながらも、内容が意見交換ということだったので名刺交換で終わるだろうと高を括っていた。実際に会ってみると社風と違い気さくで映像が大好き人間で、映像・機材関連の話で盛り上がった後に進めている事業計画にどうしても動画コンテンツを組み込みたい、ということになりサンプル動画を作る流れになった(無償で)。先方の事業計画に映像をどう活用していくのかの案を数えきれないほどのやり取りが行われ、当事業は採用され100本の動画の制作が決定した。Eメールのやりとりを見るとこの事業に関する最後のメールの日付が2014年4月となっていたので、1年近くのお得意先となった。100本以上は作って何を作ったかは覚えていても時間の前後は忘れている。この長期案件でこれまでの機材代全てと家にある質素な所有物を全て合わせたくらいの額が入金されることとなるが、その年度の確定申告で大ポカをやらかした。必要な機材一式をほとんど前年度までには揃っていて、節税対策なるものを全くやってなかったのだ。青色申告会の人にも忠告されたが後の祭り。

2014後半から2015年、Eメールを遡ってみると仕事は控えめで、自分からアプローチして映像を作らせてもらえないかというやり取りが多くなり、「映像とは何だろう」「例えばこの場合、上手く活用される媒体にするにはどういう映像にしたらいいのだろう」まるで哲学をしている状態だったと記憶している。当時は常に迷い/不安/葛藤(依頼された注文に対して、コレそもそも動画化する必要があるのか?別の切り口はないか?等)があった。時間や労力をかけて制作する映像に目新しい視点や発見を見出すことが根底になければ何の意味があるのだろう。この辺りからは気付けば中小企業もデジタル一眼で撮影が一般化してきて、ドローン空撮も流行り出してきた頃か。Vimeoには一流企業が関わる制作動画が多くなり、個人や小集団の海外クリエーター達の動画共有コミュニティとして機能していたのはどこへやら・・・。ある同業者の方に「贅沢な悩み持ってるなぁ」と言われたこの一言は今でも忘れられない。実際その通りで、稼がなくていい環境が自分自身にあるから必死になる必要がなかっただけなのだ。

2015年夏、映像制作から一旦距離を置いておこうと地域活性化を目的とした団体に属した。職務履歴書にはもちろん映像関係ができることが知られているので、そちらの通常業務の傍、団体や地域に関する動画・パンフレット・ポスター等を作成した。どこにいても逃れられないというより、出来るからやった。そこではあまりいい思い出があまりない。地域を売り込むために中国人向け専門の営業イベントがあり英語ができるだろうと言われ同行したものの、向こうは効率重視で単刀直入に聞いてくるものだから心がズタズタになった。私は通訳者じゃないんだから。台湾からカメラマンをやっているお客さんがふらっとやって来て、仕事そっちのけで久々に英語で1時間ほどおしゃべりしたのは楽しかった。「まちづくり」とは利害関係のすり合わせなのかな、知らないけど。歴史的資源の消費が大きな要素として観光産業が成り立っているなのは身近で分かったが、沖縄はそこから脱却したらいいのになんて考えたりもした。仕事なので嫌なことは付き物でしょう。自分自身に本当に合っているのか不安だが良い会社が求人募集をしていたので、そこに応募するために退職届を出した(退職代行サービスの存在を知っていたら使ってた)。代表さんは露骨に本性を表しましてご自身の影響力の大きさをひけらかし私の将来を見に案じて下さいまして、まぁ脅されてる気分で話し合いを続けた。そりゃ前の地元の人たちが皆んな変な辞め方していった理由が理解できた。退職届を受け取らないような有耶無耶な返事をされた気がするが、最後はもう気が動転して覚えてない。帰り道に応募予定だった会社に留守電になってくれと祈りながらもそうならず、あのお話は無かったことに・・・とそれ以上のことは何も言えなかった。翌日すぐに労働基準監督署に行き自分の退職届は有効かを聞きに行ったら、問題ないとのことだった。駐車場までの帰り道ずっと涙が止まらなかった。何週間かしてその代表さんが私に一言「受け取ったことにするから。」「はぁ。」一応ケジメとして2016年3月末までいたけど、社内誕生日会みたいなのやめて欲しい。お通夜にケーキ。

2016年、35歳。とにかく社会と関わらないようになった。人間も信じない。まるで覚えてないのでEメールを遡る。4月に個人事業時代のクライアントとの新たな長期案件についてのやりとりが前回のように案を出しながら行われていて、自分は療養中ということにして他の事業者への案内を促している。過去映像の一部を使用したいと、事務的に動画データを国内外に送ってたり。以前のクライアントさんからお仕事のお話や近況などを尋ねられ、映像制作には携わっておらず・・・と言葉を濁して返信したり、Eメールから分かるのはこれくらい。掃除と料理はしっかり主夫していたはず。TBSラジオの『JUNK』や特に『東京ポッド許可局』はお気に入りだった。『AFKアリーナ』(約2年でAppleカード ¥10,000分が50枚になった時点で辞めた)というソシャゲに初めてハマって、日本人プレイヤーがあまりおらず攻略参考はRedditが主流だったのもあって、自然とゲーム業界についても割と詳しくなっていく。エンタメ産業はゲームの時代だし、Steamで誰でも自作ゲームを販売できる地盤が整っている。10時間以内にクリアできる小規模開発ゲーム『Coffee Talk』 『Neo Cab』 『The Cosmic Wheel Sisterhood』 『Gris』 『What Remains of Edith Finch』は物語の意図や視点をプレイヤーに選択させ完結させていく手法として興味深い。他にあまり記憶がないので自分の人生の中の失われた5年かもしれない。

2022年2月、人材派遣会社に登録し夜勤の仕事を始めた。体力的にかなりハードな流れ仕事だったが、一時は65Kg近くあった体重がみるみる落ちていく。お金をもらってジムに通うようなものだった。重いものが持てない体格だからか他の班に回されたが、特殊な班で派遣社員は私1人で父と同じ年齢くらいの社員3人をローテーションで回す感じだった。事務室で計算し手書きで記入してを何度も往復するものだから基本早歩き、すれ違いに誰かに会っても通りすがりに愛想よく「お疲れ様です」と言う間もなく軽く会釈だけで良くなって、別の班のようにラインが止まってお手隙の際には誰とも雑談したくなかったので性に合っていたのかもしれない。労働が楽しいとすら感じた。愚痴も言わず素直になんでも言われたことをやるだけだった。あちこち動き回って仕事してる感が出てたのか勤務時間が他の派遣社員の人達の2倍近くに変更になった。私の担当する班は1階がメインで、2階に事務室とかなり高齢に見える社員が1人で担当する別の作業場があり、その頃には3元中継のようになり班全体が把握でき他の班とも連携ができるようになった。派遣社員の中では浮いた存在だったろうし、繁忙期は特に残業が多くなり同じ班の社員の人たちより稼いでいたのは確かだった。仕事を覚えていくうち作業量的に社員1人でもいいだろうと思い、早退扱いで他の派遣社員の皆さんと同じ時間に帰っていいですか?と同班の社員に聞くと、「定時まで残って稼げばいいじゃん。他の作業を自分で探せ」と言われ、急激に人がいなくなると他にもすることないものだからその時間帯以降は暇さえあれば静まり返った構内を掃除ばかりしてた。教育担当者に繁忙期でもないのにこの班はいつも残業ばかりなのかなぁ?と聞かれ、それは分かりませんと返すしかなかった。もし生活残業があの時に実際あったとしたら、個人的にはやむを得ないとしか言えない。そこでは定年を過ぎるとグールプ会社である派遣会社に契約(グループ内派遣)しないと今の仕事を続けられないという社員もいたから。

ある時に私とは別の派遣会社から巨漢な派遣社員が同じ班に配置された。過去にも経験があり、出戻りという形だったがその人の良い評判は聞かなかった。とある日一緒に作業をしてると「あんたさぁ、自分で仕事できると思ってるの?」「はい?(他社の人間にアンタ呼ばわりされる筋合いはない)」「⚪︎⚪︎さん(社員)がもう少し動けっていってたよぉ。」私は売られたケンカは買うほうなので「⚪︎⚪︎さんが私に直接言えばいいだけですし、クレームがあるならこの会社の事務方さんか私の派遣会社にお伝えください」と返したがまるで話が通じないのでその場を離れた。変わった人なのはいいが、作業終わり前に他の班の女性たちに指示して作業させて身体の大きい自分は動かないのは納得いかなく、それがあまりに続くものだから一度ブチ切れてカゴ台車に荒く当たって危うく別班の女性に怪我をさせるところだった・・・。この危険行為は今でもずっと自分の頭から離れなくて、感情の制御を改善しなければならない。その女性はそれからこちらの班には寄り付くことはなくなり、別の派遣会社の巨漢の男性はいつのまにか辞めていた。後味の悪いこととなり、更に他者と接するのを控えていった。

夜勤の生活なので休日でもR子が眠っている深夜にコンビニで缶チューハイを何本か買って、海辺で飲みながらさざ波と若人の語らいが聞こえる中でKindleを読んでいるのが一番落ち着く時間だった。あと1年も続けられるだろうかと考えていた頃、留学時代にホームステイ先にいた Ÿ が沖縄に1人で遊びに行くと言ってきた。Ÿとは帰国後に沖縄に来て案内したり私が上京した時は逆に東京を案内してくれて以降、数年に1度あるか無いか通話で何時間も下世話な話をする唯一の友人と呼べる人間だった。彼女が躁鬱病というのも聞いていたし、連絡の無い時はそういう気分なのだろうとそっとしていた。ある時期から頻繁に連絡をし合うようになり、Ÿの滞在日が丁度R子が出張で沖縄にいない期間と被っていた。違和感。

20年近く会ってなかったが茶目っ気の残った顔のŸは空港で遠くからでもすぐに認識できた。滞在5日間なのに大きなキャリーケースと手荷物がすごくて冬でも身軽の方がいいと口酸っぱく言ったはずなのに、一体何が入ってるのと聞いたら「靴」と。「後でハサミ貸してくれない?」「枕の下にでも置くん?(実家にいた頃母がテッシュで包んだハサミを私のマットレスの下に入れてたな)」Ÿの理由は忘れたが大したことのない事だったはず。宿は家の近くでチェックインまで時間があったので途中の瀬長島に連れて行った。ずいぶんと動作が鈍いなぁと昔こんなんだったけ?と感じながら歩幅も合わないまま何時間もそこで過ごした。こちらが今の仕事のペースに慣れすぎてせっかちになったのだろうか。私が作ったゴーヤーチャンプルーを食べたいというので近くのショッピングセンターでŸを降ろして自宅にハサミと自分の着替えを取りに帰りまたŸと落ち合い食材と調味料を買った。チェックインを済まし、私も一晩だけ部屋を取った。自分の部屋のキッチンで後は炒めるだけの段階に入っても来ないし、こちらも夜勤があるから寝る時間が欲しいのとで、待ちきれず炒めてしまおうとした時にようやくやって来た。食べ終わって片付けして食器と調理器具をフロントに返しにいって、自分もう寝るよと言ったらŸも同じベッドにスペースを開けて横になった。結婚してるのに相変わらずだなぁ、と昔のように横になって結局2時間ほどしか寝れる時間がなかったのでボーッとテレビを眺めていた。翌日からは4日間休みにしてもらったので仕事帰ったら寝るから、行きたいところがあったら案を出しておいてとメッセージを送り退勤後ようやく自宅で眠れた。「いま瀬長島の温泉。」また瀬長島?バスで行ったようだ。迎えに行って営業時間終わりに最後にやっと出て来て、電照菊が見たいというので近いのでそのまま連れて行った。明日美ら海館に行きたいなら朝早いよと伝えたのだけど、東南植物楽園も寄りたいと言って、それ1日で絶対無理だから。とりあえず明日の朝7時に迎えに行くからといって、家に帰ったがそれからもメッセージのやり合いで植物楽園1〜2時間滞在なら行けるかもということで収まった。翌朝迎えに行ったが一向に降りて来ず30分近くは待たされただろうか。途中でコンビニに寄ると沖縄のコンビニってピザ焼いてるの?と言ってはしゃいで買って「お兄ちゃんに車の中で食べたら怒られたんだよね〜」と車内で半分残してくれた。てっきり休憩中に食べるのかと思ったけど、まぁ運転中に弁当食べていたドライバーは見たことあるしと違和感ありつつ東南植物楽園に到着した。営業開始直後だったからか人もまばらでこれならすぐ見て回れるだろうと、それが違った。心の中でもっと早く歩いてくれと願いながら園内を歩き途中動物を見つけて餌をゆっくりあげて、こっちは時間しか気にしてなくて。ある程度見たからもういいんじゃない?と聞くと、まだ見てない所あるからとマップを見ながら言うので別行動に切り替えた。車に戻り頭を冷やしながら冷めたピザを食べて1人散歩して、どれくらい時間がたっただろう、Ÿが園内にある学童教室の子ども達と遊んでいるのが見えた。「何してるの??」「かわいくない?」「・・・」「ちゃんと構ってよ。」「・・・」何かよく分からない状況に自分自身がいた。(中略) どうやって植物楽園に営業開始時間からイルミネーション終了時間まで滞在できたのだろうか。(中略) 宿までの車内では一言もしゃべらずŸはスマホの画面を見つめたままだった。宿の横に車を停めて、最後にお互いが何を言ったのか覚えてない。自宅に帰ると、借りたハサミを宿のフロントに預けておくといった内容のメッセージが入っていた。ハサミは宿のスタッフに処分させてと返した。その後は自分の事だから長文メッセージを送ったに違いない。スマホに履歴は残っているが見返す勇気はまだない。「じゃあね」でŸのメッセージが終わっているのだけチラッと見える。その後の残りの滞在期間をŸがどう過ごしていたか分からないが、宿の彼女の部屋の明かりが付いているか夜な夜な確認だけはしていった。東京に帰る日の夜は部屋の電気は消えていたので無事に帰ったのだろう。あの1日に起こったことを振り返っても、整理がつかないままだ。

それから約2ヶ月後、2023年2月末までは派遣先に今まで通り出勤するが3月1日以降(本来なら3月末が契約満了日)は出勤しない旨をメールで派遣会社に伝えた。辞めると決めたきっかけは特になく気分が落ち込んでいたのだろう、別班のよく話をかけて面倒見てくれる社員に「最近どうした、笑えぇ」と言われても愛想笑いも返せなかった。同じ班に他の社員も配属されたし繁忙期も過ぎたので、会社に伝えた2月末の1週間前に、他の派遣会社の皆と同じ時刻に退勤し本来なら持って帰らなければならないカードキーを日雇い派遣の人たちと同じようにそれを残して敷地を出た。翌日作業現場の携帯から電話があったが取らなかった。元々派遣社員の立場上個人の携帯番号は教えちゃいけなかったし。派遣会社に残っていた有給を使い切らせてもらった。R子と食事か何かの帰り道の歩道でなぜか泣き崩れた。この時期の記憶はおぼろげな状態で残っている。不眠が続き、精神的に混乱状態になり、ある日の夕方、気を紛らわせるためにR子にドライブをお願いした。手足の痺れが出て、吐き気を催してスーパーのトイレで嘔吐をした時に、とてもまずい事か起こっていると感じ実家に電話をしてすぐに向かった。着く頃には冷や汗をかいて手がブルブル震えて歩くのもやっとだった。両親はいつものように居間でテレビを見ながら過ごしていたようだった。「あんたアル中じゃないの?」と母が動揺しながら言ってきた。私自身はアル中の人を見たことがないから分からない。いつから飲んでいるのか、なぜ飲んでいたのか等を散々問われた。普段から飲んではいたし、お酒の量が増えたのは夜勤時に自宅の通り向かいでマンションが建設中で騒音で眠れないからだった。あまりにもうるさいので現場の人にクレームしたけど、と言ったが「現場の人に言っても意味ないわ。」「なんで実家を頼らなかったの?こっちからでも通えたでしょ?」母は父に「あんたも何か言ってよ。私だけ悪者なぁ?」と。父はその夜一言も発することなくただただ呆然としてるだけだった。(お母さま、お父さまは今ドン引きしているのです・・・)吐き気も収まりかけて自分も少しずつ冷静になっていった。とにかく病院に行くことが決まり後日心療内科で精密検査が行われたが身体には異常はなかった。その時まで私は糖尿病か何かの大病を疑っていたのだが安心した。脳の精密検査を行うかどうかを医師に聞かれたが、頭の中が一体どうなってるのか怖くて保留にして寝付きを良くする薬を処方してもらった。ひたすら過去にしたこと・するべきだったのにしなかったことが頭の中から離れなかった。一つずつでもそれを消したくて、夜勤をしていた会社へ夜明け前に足を運んだ。教育担当者がおり、変な辞め方をしたこと、自分の今の状態と過去の状態を話し謝罪した。本来であれば派遣先会社ではなく派遣会社に伝えるべきなのは理解していたが、どうしても現場の人に自分の口からそうしたかった。懺悔のような身勝手な行為だと認識していたが、その後は夜勤時代のことを不安に感じることも減った。その不安が減ってもまた別の不安に置き換わる。R子には別れてくれと何度もお願いしたが聞く耳を持たずだった。存在を無くすとしたら発見されたほうがいいのか不明のままがいいのかの葛藤。R子に自分の居場所が分かるようにスマホの位置情報を特定できるようにした。お酒をまた飲み始めると自然と前向きになって、父の仕事を手伝おうか、新しい商売でも始めようかとR子と話し合うこともできた。お酒が入っている方が冷静になれる気がしていたが、だが以前まではお酒を飲みながら読書できていたのに内容がほとんど入ってこない。本当に自分はアル中なのかだろうか?お酒を辞めてみた。また冷や汗と吐き気を催した。「これ、また一杯飲んで直ったら確定だな」とR子に言った。缶チューハイ1本飲み終えて、元に戻った。(後に知ったがネット上の AUDIT で簡単に評価できる。)

どこか入院できる精神病院をR子に探してもらった。そこでアルコール依存症と診断され即日に入院となった。入院中は再発防止のための学習プログラムが組み込まれており、アルコール依存症は回復はできるが完治しない病気で、最初の1年間断酒を続けても再飲酒率は7割と言われていること、依存症の基礎知識や対処法などを学んだ。その残りの3割に入り込めるかは本人にすら分からない。規則正しい生活と適度な運動、日常生活に必要なものは最低限で十分だと入院中に身をもって知った。20:30に眠剤や各患者に合わせた処方薬を飲み21:00に消灯、朝6:00に起床と院内ではスケジュール管理されていたが、私は大抵02:00前後に目が覚め薄暗い大部屋でKindleで読書する毎日だった。長期にわたる生活なのでついでに猫背も治そうと姿勢を正す努力は続けた。精神安定剤に逆に依存したくなかったので主治医に一番軽いものをお願いした。一番面倒だったのがお風呂に入る時で浴室にはシャワーが5つあるのにも関わらず、ほとんどの人が1人ずつ代わりばんこにはいるものだから合間を探すのに苦労した。同室に年配の患者さんがいて、お互いの裸なんて全然気にしないから同時に入ってしまおうと取り決めた。男女比率は8:2といったところだろうか、年配の人の割合が多く入退院を繰り返している患者さんも少なくなかった。見知らぬ人たちとの集団生活は初めてだったのが、慣れるのに1週間もかからなかった。4人部屋以外の患者さんたちとは距離を置いて自分から積極的に話しかけることないはなかったが、年配の人たちは割と繋がりを持とうとするので将棋などをしたりして、飛車書く抜きでも勝てないものだから、歩無しにしたり歩がお互い初めからと金状態と変則ルールにして遊んだりもした。昔から年上の方が気が楽でいいのだ。入院して1ヶ月した頃だったろうか、私よりも若く刺青を入れた上半身を廊下で彷徨くような患者さんがいて、再入院を繰り返して仕切りたがりなのかお山の大将感を出していた。入ってはいけない時間帯に浴室が使用中で、一度も会話を交わしたことのないその人と仲間の1人が「くでけんじゃね?」と丁度私が廊下の角を曲がった時に聞こえたものだから、(舐めてるのか?)通りすがりに思いっきりガンを飛ばして自室の扉を勢いよく閉めた。同室の人にどうしたの?と聞かれ何でもないですヨとまた扉を開けたら彼らが手前にある外の洗濯干し場でコチラ側を見てヒソヒソしていた。その人はそれから急におとなしくなった。精神的に安定していても、感情の抑制はまだまだ未熟である。

入院から約2ヶ月後に退院し、元の生活に戻った。最初の数ヶ月は断酒継続ができたが再飲酒が始まった。アルコール依存症者は1年間断酒を続けても再飲酒率は7割、その3割に入り込めなかった。お酒を飲むと気分も安定し冷静になれるが頭のどこかで辞めないととはずっと考えている。断酒と再飲酒を繰り返していくうちに自分の離脱症状(手の震え、冷や汗、底の見えない不安感や罪悪感)のパターンも分かってきた。定期的に通院は続けていたので、飲酒中のあのボーッと出来るような状態でいられる薬を処方してもらったり、R子に鍵や財布を預けて外に出られない環境を作ったりしても無理だった。緊急時の現金は用意しているし、スーパー・コンビニなどは徒歩5分圏内にあるのだから。再飲酒に陥る時、アルコール依存症者は何にでも理由を正当化させ1杯目を口にする。私の場合は、自分自身の状態が祖父母を含めた親類全てに隠されていることからくる自己否定、違和感だらけの世界に対する悲観や懐疑、何でもない物事に対する過敏な反応。それらはお酒で確実に抑えられるのだ。入院中の安全圏にいる安心感が恋しくなる時も多々あり、また同じ病院に再入院となる。2度目の入院時には手慣れたもので必要な荷物もコンパクトになっていった。この時の入院時は必要時以外はほぼ自室に篭りきりになって、初めて『ナルニア国物語』を読んだり、昔読んだ『ハリー・ポッター』や『ソフィーの世界』などの児童文学を再読してみたりで特に記憶に残ることがないまま退院した。

2024年も終わろうとしてる頃、父の兄にあたる叔父の3回忌が正月三が日直後に行われると両親から連絡があり祖父母1年近くぶりに会うのが不安になってきた。こんな自分をどうやって顔向けできるだろう。いつからだろうか覚えていないが両親とR子の目を直視できなくなっていた。私はアルコール依存症者であり、飲む理由をいかようにも正当化させる。沈まない気分でいるために、その法要の日は飲むであろう。であればしばらく飲んでいないから慣れるために大晦日から飲もうか、いやクリスマスから飲もう、と。再飲酒する時は飲み過ぎるのではなく、離脱症状が起きない程度に体にエチルアルコールが入り続ければよく、その状態をキープさえすればいいだけだった。法要の日、母は私がやけに陽気なのに気づいていたようだった。「あなたのお母さんが、あなたの事をもう信用しない、って言っていたよ・・・」とR子から聞かされた。冷静さを保つために飲み続けた。あれこれと考えていると環境を変えるしか他にないと思った。行き着いた自分の答えが両親との同居だった。それならば飲めない環境下に居続けられ実家2階の2部屋は物置と化しているし、生活における経済的負担も減るだろう。父が祖父の畑を引き継いでいる形になっているので自分も手伝いくらいは出来るだろうと。深夜遅くまで横になりながらR子にこの考えを伝えてみると、反対というわけでもなさそうだった。ただ女性の本心は分からない。私はもし今眠ったらまとまった考えを忘れるかそれから逃げてしまうかもしれないと焦り、まだ日が昇らない時間に父に電話し理由は説明せず家に来てもらった。R子は寝室で寝ているので玄関に座りながら自分の同居の考えを父に伝えた。思っていた通り父も反対はしていなかったが、母が納得するかまでは分からないと言い話は終わった。後日、私抜きで3者で話し合いをして決めて欲しいとお願いしたが、結局4人で話し合いその方向で決まり、2月に3度目の入院生活を始めた。今回の入院中は日頃飲んでいる薬を色々と試していくのが私にとって一番の目的だった。軽かった薬の量を増やしたり、別の薬を試したり。R子からは実家がリフォームっぽいことを始めたらしいと聞いて焦り始めた。建物のペンキも塗り替え、駐車場もスペースを作るためにどうするかなども考えているなど・・・。私の両親は昔からせっかちな性格なのだ。父からは部屋の電球は何色がいいのかのメッセージなど、実家が今どういう状況なのか見に行けるわけもなく動揺するたびに看護師から安定剤をもらった。

2025年5月、R子は今までの家に残る形で私は実家で両親と暮らし始めた。建物は近所の何軒かが明るい色にしたところ雨シミや黒スジで出来たというので、黒と灰色が基調の見た目に変わっていた。さすがに堅実だなと思った。(昔祖父がお隣さんが太陽光発電にしたから自分たちもやると言い出した時は両親そろって大反対したらしい。マルチ商法やら自宅が小さく写った空撮写真を高額で買うのだから・・・。)倉庫化した自分の部屋にある卒業アルバムなど記念になるようなのも全て軽トラック1台分処分した。手元に置いておきたい本と、ネットで高くで売れるかもしれない絶版本やCDなど、いつか何かに使えそうな留学時代に使っていた古びたスーツケースだけが残った。自宅から持ってくる物が替わりに入ってくるにしても、入院を繰り返していると本当に必要なものだけで十分だという感覚になっている。弟には申し訳ないと思うが、同じく物置として利用していた自室から必要なものは既に自身のアパートに持って行った後だった。弟とは冠婚葬祭で数年に1度会うかどうかで、会っても一言二言やり取りをするかしないかの仲である。そもそも私が子供時代に弟に自分の持ち物を勝手に触っただろと両親の居ない時に難癖をつけたり、今ではモラハラと言われても仕方のない事をしてきたのだから。弟が保育士をやっているのが、私の過去の行為から何らかの影響を受けているのではとふと考えたりもする。処分してもいいという弟の部屋を片付けながら、かなりのゲーマーだなという痕跡が残されており、いつか話が通じることがあるだろうかとしんみりしてしまう。こうやって今、弟の前の部屋を私が使わせてもらっている。駐車スペースが出来たらそのうちR子もここに暮らし始めるのかもしれない。昔の機材はまだまだ使えそうではあるが、今もし映像やらを趣味でやるとするならば、カメラはスマホに置き換え、三脚は小型で使いやすく頑丈なもの、Mac mini辺りくらいで十分だろう。音の悪い動画は観る以前の問題だし、音声機材だけは変わらずできる限り業務機を使用するだろうな。

これを書きながら長いこと連絡をしてないカレッジ時代の人たちに連絡がついた。当時私を振り回して迷惑かけたかと心配してたと書いていた。逆に私は内気な性格なので彼らがいてとても助かった。人伝に亡くなったという人もいたり連絡のつかない人たちもいるが、何かがどこかしらで影響しあっている。まるで脳内のニューロンの活動のように。それに終わりはないだろう。両親と暮らしてみるとまるで子供に戻った気になる時もある。しっかし、「お菓子食べる?」「食べません」と返した時などに出てくる母の口癖「はーっしっ」が「Uh sh*t」に聞こえて仕方がない。違和感だらけのこの世界で、3種類の常用薬と2種類の頓服薬で規則正しく私は生きていくのだろう。

 

 

《終文》

掲載可能かと思われる部分だけをネット上に残すことにする。

無意識の記憶の改竄もあるかもしれない。

 

[書く前から分かっていたこと]

母の影響が強かったこと。泣き虫。お金に無頓着なのは家に余裕があったから。

 

[書いて分かったこと]

辞め癖。考え過ぎると衝動的に行動する。切り替えが早い。過去に囚われるのはやめろ。

 

失ってはいけない物が無い、恐れるものが無い、と感じると0からだったら何でも出来るんじゃないかと急に前向きになることもある。

できるから、やる。そう思う日もあれば、できないから、やらない。それの何が悪いのだろうという日もある。

この瞬間、薬が効いているのかどうかさえ分からない。

 

これは、書きたいから書いた。とりとめのない記憶まで浮かんでくるのなら封じ込めて仕舞おう。

 

ただそれだけ。

 

 

N.K.