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映像制作における、手段の目的化

プロダクション・バリュー(Production Value)という言葉は、かの国の映画・映像産業における業界用語。
正確には【製作の質】ということになろうが、ほとんどの場合、低予算の映画制作における【費用かけた感】だったり【作り込み感】の意味合いで使われている。

映像制作の業界でプロダクション・バリューとういう言葉を使わなくても、作る側は(意識的に、もしくは無意識に)映像という成果物にその概念を反映させようとする。

豊富な予算でも駄作は生まれるが、はなから安っぽい作品になってしまうと評価が下がるのだから、プロダクション・バリューを上げることは非常に重要な課題となる。
(いま人気のある演者を起用したり、撮影で新しい機材を使うことだったり、編集でエフェクトをかけたり、etc…)
作る側はプロダクション・バリューの向上に躍起になるのだが、観る側はそれ自体を見ているわけではない。
「その予算でこんな風に作れたの?」なんて感じるのは関係者や映像オタクくらいだ。

制作の度合いが多様化した(制作費を抑えても見栄えのいいものができる技術の発達のおかげで)今の映像制作業界においても、制作側が最も気にしている点が、
『低予算でも、いかにクオリティーを高めるか。』
お仕事として依頼された映像制作でそれを成し遂げた時、クライアントにすごく喜んでもらえる。こちらとしてもうまくやったと思うだろう。

それで、また同じ文章を繰り返すのだが、

作る側はプロダクション・バリューの向上に躍起になるのだが、観る側はそれ自体を見ているわけではない。
「その予算でこんな風に作れたの?」なんて感じるのは関係者や映像オタクくらいだ。

そもそもなぜ映像が必要なのか。
本来のある目的を達成するための、手段・方法にすぎないはず。

そこを見失ってしまったら、行き着く先は、手段の目的化。
 

【 2017.03.27 追記 】
上記は3年前に書いた文章ですが、見方によっては批判めいている感じもあるかもしれません。こういう見方もある、というのが当初からの考えです。
ただ補足するのであれば、それらを踏まえて、
手段や目的といった概念をも超えた何かが存在するのなら、取り掛かるべきではないだろうか。